直接対決すれば母親はすぐ間違いを認めるだろう

私は当初家内から話を聞いたとき、これは母親のまったくのカン違いで、直接対決すれば母親はすぐ間違いを認めるだろうと簡単に考えていた。そして妹たちも、すぐ謝罪すると思っていた。そこが肉親の情というものかもしれないが甘すぎた。相手は私が考えた以上にしたたかで、4人揃って自分たちのそれぞれの非を決して認めようとはしなかったのである。

私は、いまでも大学1年の終わりではなく1年浪人してちょうど受験期にこの騒ぎにぶつかっていたら自分の人生はどうなっていただろうと考えることがある。父方と母方を通じで父親と伯父・叔父8人のうち、1人として浪人を経験せずに大学を出たものはいない。したがって、この想像は決してありえなかったことではない。

そのときはゴタゴタで受験に失敗し、もちろん奨学金も家庭教師の口もなく、そのまま社会に出て働きながら自活しなければならなかったろう。少年のころからの志望だった新聞記者にもなれなかったし、フリーの物書きにはいつの日かなれたにしても大変なハンディを背負ってスタートしなければならなかっただろう。そう思うと50年経った今でも眠れぬ夜がある。

この学資騒ぎ以降、私の胸中で親と妹、4人に対するなにかがプツンと切れた。切れたものは、もはや絶対に元に戻ることはありえない。正直にいえば顔を見るのもイヤになったという心境になったのである。母親は伯父も祖母も死んでからの20年近く唯一の肉親だった弟、つまり私の叔父ともカネをめぐって絶縁状態になっている。

母方の祖母が死んだとき、毎月仕送りを受けて暮らしていたのだから大した額ではないが、預金の残高があった。一部はかねてからの仕送りを貯めたもの、ごく一部は私が富山に講演にいったときに見舞いとして講演料を置いてきたものだが、大半は叔父が母親の最期に不自由がないようにとまとめて渡してあったものである。その残高に関して母親が子供は3人いたのだから自分にも3分の1を貰う権利があると言い出した。

上の妹によると母親と富山で暮らしていて、何かと面倒を見てきた下の妹には、祖母は生前になにがしかを渡していたが、自分はなにももらっておらず死後に預金の残りから渡すという話になっていたので、それを母親が代わりに主張したのだという。そんなカネをもらう筋合いなどどこにもないではないかといっても、だってお祖母さんの遺言だものという。もらってなにが悪いという顔つきである。

この一件で叔父は実に不愉快な思いをしたらしい。当然のことである。彼はシベリア抑留から帰った新婚早々のサラリーマンの薄給の中から自活している学生の私にしばしば小遣いをくれたし、大阪にいた親たちが東京の私の家にきたときには、彼らをご馳走に連れ出してくれた。彼らが最終的に東京に住むようになったときも、この問題が起きた後にもかかわらず、ともかく訪ねてくれた。しかし母親は、このとき下を向いたきり押し黙り、ついに一言も発しなかった。