予算改革とは何か

これまで、日本の予算過程にみられる特徴と問題点をみてきた。予算の編成や実行の細部に入り込むほど、手続きの複雑さの陰で既得利益を追求する官僚制や政治家の姿が明らかになり、うんざりさせられる。予算の構造はあまりにも巨大であり、それがいかに負債を積み上げようとも、市民には「家計」ほどリアルに危機の様相が伝わってこない。それをよいことに、将来の財政状態などまったく考えずに、目先の利益だけを追っているのが、予算をめぐる政治の実態であるといってよい。

もちろん、これまでにも、幾度となく予算の構造の改革が指摘されてきた。それは外部の専門家による提言ばかりではない。政府自身、たとえば高度経済成長が軌道にのった一九六二年に第一次臨時行政調査会を設け、予算制度の改革を審議している。戦後初めての赤字国債の発行を受けて大蔵省が試みた「財政硬直化キャンペーン」も、その一種であるといってもよい(山口二郎『大蔵官僚支配の終焉』岩波書店、一九八七年)。さらに、赤字国債の発行が本格化する七〇年代末に試みられたスプリングーレビューも、予算改革の試みの一部ではあったろう。

とはいえ。「これでは財政は硬直化する」「破綻する日は近い」といわれようとも、政治の世界には。危機を煽っているとしか受け取られてこなかった。そこには、経済成長による増収への安易な期待が横たわっていたといってよい。しかし。驚異的経済成長など、とうの昔に過ぎ去った。それどころか、ポスト冷戦の世界は、市場のグローバル化を押し進めている。「一九四〇年体制」とまで一部の経済学者が形容する官僚制に仕切られた市場を前提とするかぎり、日本経済の復興など覚束ないだろう。ということは、「経済成長さえすればすべてが解決する」は、まったくの「神話」にすぎない。

こうした「神話」のもととなった驚異的経済成長は、予算改革にとっては不幸な経験であったかもしれない。それに支えられてか、先進国のなかで日本ほど、予算改革に無頓着な国もない。予算改革は、たんに予算の編成や実行手続きの改革を意味しているのではない。なによりも、財政運営のなかで堆積してきた政策・事業を、充当経費のみならず実施機構や人員をふくめて評価し、予算に「合理性」をもたせるために必要なのである。

いいかえるならば、予算のライフサイクルに応じて政策・事業評価が可能となるように、中央行政機構、中央と自治体との関係、国会の組織と審議手続きなどの全般にわたる改革を、指向するものでなくてはならない。この意味では、予算改革はまさに政治改革に等しいのだが、以下、なかでも重要なそして基礎的な検討課題を指摘しておこう。