NATOに非難が集中した

一九九二年四月にはじまったボスニアヘルツェゴビナ戦争は、第一次・第二次世界大戦を除いて、ヨーロッパ近代史上最大の犠牲者を生んだといわれている。独立でセルビアから分離させられることになったセルビア人がそれに反対して蜂起し、共生するクロアチア人、モスレムに対して、「民族浄化」の名のもとに三つ巴の殺戮を繰り返したこの戦争では、ボスニアムスリム女性に対するセルビア人兵士の集団レイプ(性的暴行)が世界の耳目を集めた。

さらにショッキングなのは、この集団レイプが戦略として、組織的、意図的になされたことだった。セルビア人の血が流れる子供が誕生することでセルビア人の拡充と繁栄を目指しての暴行だったのである。国連が派遣した旧ユーゴ人権問題特別調査団の報告によれば、被害者は約一万二〇〇〇人で、そのうち一一九人の妊娠が確認されたというが、実際には把握されていない。しかし、これはセルビアに限らず、似たような性的暴行は、この紛争中、三民族間に共通してみられたことだった。

この戦争は、一九九三年以降、領土の七割をセルビア人、二割をクロアチア人、一割をモスレムがそれぞれ支配するようになり、その後モスレムが、セルビアの領土を全体の約五割にまで縮小させたところで一応の集結をみた(一九九五年、デイトン協定)。さてユーゴスラビア問題で、忘れてならないのがコソボ紛争だろう。これはセルビア南部のコソボ自治州で勃発した紛争で、人口の七〜八%しかいないキリスト教徒のセルビア人(セルビア正教会帰属)が九割以上を占めるアルバニア人ムスリムを掃討しようとした。

コソボセルビア人にとって中世から胸に刻まれた地名である。一三八九年にセルビア帝国オスマントルコと闘って敗れたのがこのコソボなのだ。その際、形としてはキリスト教徒がイスラム教徒に負けたことになっている。六百年の時を隔ててその「あだ討ち」がなされたわけである。犠牲者が四五人出た一九九九年一月のラチャク村事件に世界は注目した。NATOは、度重なる警告、制裁をセルビアミロシェビッチ大統領)が無視したため、同年三月二四日に空爆をおこりなった。在セルビア中国大使館が誤爆されたことでNATOに非難が集中したことは記憶に新しい。

紛争そのものは同年六月の停戦でやんだが、コソボは国連平和維持軍の占領下におかれることとなった。この紛争で多くのアルバニア人が難民として隣国アルバニアマケドニアに移住したが、それと同時に多くのセルビア人もセルビア本土に戻った。現在は、セルビア人に対するアルバニア人の報復テロが起こされることかおり、民衆レベルでの抗争は続いているのである。